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2012年6月4日(月) 箴30-31,詩33,エペソ1 竹村

詩篇33-13~15
主は天から目を注ぎ、人の子らを残さずご覧になる。
御住まいの所から地に住むすべての者に目を注がれる。
主は彼らの心をそれぞれみな造り、彼らのわざのすべてを
読み取る方。

先日の日曜礼拝で、危機に対するリーダーシップということで
先生が、メッセージしていましたが、まさに今少し危機の中にいるのかな
とメッセージ中にふと思いました。
何年か前に私の勤めていた会社は倒産し消滅しました。
そこから右往左往して約8年間で、業務執行の取締役まで来ました。この8年間と
いうよりも、仕事というものについて、ずっとやってきた製造から、この
6月1日から、急に営業職に配置転換となりました。

営業(笑)??

もちろん経験のある方にとっては動作のない事かもしれません、しかし私に
とっては劇的に環境が変わりました。
以前から頻繁に出向くことはありましたが、立場が変わってそれ専属というのは。
言い渡されたときは実感もなく、あまり事の重大さには気づいていませんでした。
先日いよいよ第一日目が来ました。朝から夜まであっという間に過ぎ去り、無我夢中で
一日が過ぎ去りました。この日が来るまで知識だけは蓄えておこうと本を読み
仕事の資料(結構膨大な数)に目を通し、いろいろ自分なりに考えて動いていましたが、
やはりやってみると、考えていたころより、はるかに大変なことに気付きました。
とりあえず、この一年やってみるということで、社長の方から言われています。
「ただこの次へのワンスッテップだから!」
ということなのですが、さ~えらいこと引き受けたなと……
八年前私は心から祈りました。神様仕事なくなったよ、どうしよう!
そして与えられたのは今の仕事です。決して自分の力で取締役になったとも思って
いませんし、そんな力、技量、人間力もあるとは思っていません。
神様の計画の中にすべてあるのだなと実感する毎日です。
さ~明日が来ます。何とか今週一週間切り抜けたいと思いますし、早く慣れたいと思っています。

2012年6月5日(火) 伝1-3,詩45,エペソ2 真由美

伝4:22私は見た。人は、自分の仕事を楽しむよりほかに、何も良いことがないことを。それが人の受ける分であるからだ。だれが、これから後に起こることを人にみせてくれるだろう。

何もよいことがない  ってとこに目がいっちゃって、以前読んだ時はテンションが下がったものだが、今回は、おお、そりゃそうだ と思った。

自分の仕事って人によって違う。会社で働いている仕事 家庭で家事をこなす仕事 自分の畑を耕す仕事 勉学に励む仕事 遊ぶ仕事 泣く仕事 家族を見守る仕事 それはその時々にそのひとに神様から与えられている仕事であり託されているもの。労働だけが仕事ではなかったんだ。ということに気が付いた。

それが楽しめたら、それが一番に決まってる。
お笑いを見て楽しむ。ゲームをして楽しむ。テーマパークに行って楽しむ。友達とのおしゃべりを楽しむ。そりゃ楽しい。でもそれらは人生で一番に求めていることというわけじゃない。
日々の生活をしていく ということをどれだけ楽しむ事ができるのか。

伝4:13また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見出すこともまた神の賜物であることを。

労苦のなかにしあわせを見出す事ができることは間違いなく神様の恵みだと思う。しかも、「すべての」労苦のなかに。

それが人の受ける分であるからだ
それが神様が用意してくださっている本当の 「良いこと」だ
今日も私は神の賜物を楽しもう

2012年6月6日(水) 伝4-6,詩18,エペソ3 きむ

エペソ3:16. どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。

「内なる人」

 このみ言葉によれば、人は、「外なる人」と「内なる人」とに別けられる。
 別の言い方にすれば、「肉身な人」と、「霊的な人」になるであおう。
 普段の生活の中にて、両面から一つを選びながら歩むこととなっている。自分のすきままに、物事を選択し進むか、主の喜ばれる方面に進むかと。
 大体に、自然人は本能によって動く、お腹が空いてれば食べる、何かを見たければ見る、欲しければ求める、行きたければ行く。何の躊躇いもなく選択し、動くのが濃く普通の自然人、肉身なる人である。
 また、道徳的な観点や社会的な通念、風習、規則が判断の基準となり、自分を制約する。これぞ、社会である。
 
 しかし、「内なる人」は神様の愛に溢れ、御霊の力によって立てられる。そして強くなる。何一つ、周りによる影響を受けない強い砦となり、自分の行くべき最も最高の道を迷いもなく示してくれるのだ。
 
 キリストの愛を知り、信頼し、満ちているのだろうか?
 物事の判断の基準がキリストとなっているのか?

もう一度、自分を顧みる今日一日となります。

※PS:今日は、算定(社会保険料の基準となる給与の平均値を計算して報告する一連の作業)講習に出かけます。毎年行う、毎年同じようなことですが、毎年、法律等が変わるため、その微調整のために参加をしなければなりません。
 私たちクリスチャンは毎日が微調整の連続ですが。(^_^;)

2012年6月7日(木) 伝7-9,エペソ4 宇津木

エペソ4:32
お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。

毎日生きていく中でいつも楽しいことばかりではありません。昔は早く大人になりたいと思っていましたがなってみれば子供の頃の方がよっぽど楽しい事が多かったと思います。
大人になって会社で無茶な指示を受け、腹を立てることが多かったり、自分の思い通りにいかない事もあります。でもそんな最悪な時こそこの御言葉を思い出し、変わりたいと思いました。

2012年6月8日(金) 伝10-12,詩94,エペソ5 鉄&桃

S: 伝道者の書 2章13節
  結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。

   エペソ 6章28節
  そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。

O: 神様を恐れ、神様の命令を守ることが人間にとってすべてである。夫が自分の妻を自分のからだのように愛することも、神様の命令。

A: 最初に伝道者の書を読み、結局は今自分の状況がどうあれ、神を恐れ命令を守ることが大事なんだぁと示され、今日はここか!と思ったら、エペソ人への手紙で自分の妻を自分のからだのように愛しなさい。という命令が早くも出た。僕の言い訳として、妻は僕の思っていることをすべてしてくれるわけでもなく、「僕ならこうする」、「僕ならそうしない」と僕が思っている事と違う言動があるので、イラついたり、無視したり、ケンカしたりして自分自身のように愛するのは難しいなぁと思っていた。でも「んじゃ、おれ自身は自分の思ってることすべてしているか?」「霊の思いと肉の行動は同じ?」という思いが来て、なのに自分はかわいい、自分自身は愛している。言い訳にならなかった。

P: 神様、僕は足りないけど自分自身を愛しています。同じように妻を愛することが出来ますように。自分の願望ばかり押し付たり、極論になることなく、冷静さと歩み寄る心を与えてください。アーメン。

(月曜日に、日曜日にやったサッカーW杯予選で大ゲンカし、離婚の話まで出た鉄之助家でした。)

2012年6月9日(土) 雅1-4,エペソ6 bright


2012年6月10日(日) 雅5-8,ピリピ1 久保

あの方のことばで、私は気を失いました。<雅歌5:6>

あの方は、一体何を言われたのでしょうか?

私の妹、花嫁よ。私は、私の庭にはいり、没薬と香料を集め、蜂の巣と蜂蜜を食べ、ぶどう酒と乳を飲む。友よ、食べよ。飲め。愛する人たちよ。大いに飲め。<5:1>
『花嫁よ』という呼びかけを見ると、この日は婚礼の宴が催されていたのでしょう。多くの招待された客達、この日を迎えることが出来た喜び、緊張、環境と感情の高ぶりにより、肉体的には疲れ切っていたのではないでしょうか?肉体が疲れきっていながら、頭脳は確かに冷静な判断をし続ける状態。私達が、仕事で、試合で、勉強で、すべてをその結果のみを求めて、その望んでいた結果が得られた夜のように、彼女にとっても、それまでの道程のひとつひとつを鮮明に確認し、そして得られた結果に浸り、まどろむこともなく、眠ることのできない夜だったのではないのでしょうか?
そんな自分だけの幸せをかみしめていた仮想空間の中で、あの方が訪れることは全く想定にありませんでした。その自分の幸せの仮想空間が、幸せの対象である当の相手が訪れるという現実によって破られたのです。

私は着物を脱いでしまった。どうしてまた、着られましょう。足も洗ってしまった。どうしてまた、よごせましょう。<5:3>
彼女は幸せの仮想空間と幸せの現実との狭間で、人間的な習慣を盾にして、あの方の要望に対して、自分自身が即行動しない言い訳を考えながら、少し、遅れて戸に向かいました。今日、既に婚姻は公にされ、もう離れることはありません。少しくらい遅れてもという気持、又、少しわざと焦らそうといういたずら心さえ持てる余裕さえあったのではないでしょうか?

私が、愛する方のために戸をあけると、愛する方は、背を向けて去って行きました。<5:6>
その時、あの方が去っていったという環境の現実が、すべては自分中心の世界に浸っていたのだという自分の内面の現実をあからさまにしたのです。その自分の内面の現実は、公の婚姻という外面の現実に依り頼んでおり、その外面の現実に完全に支配されていることを改めて知ることとなったのです。彼女は、この後も自分の行動があの方を去らせたのだという強迫観念に苛まれます。

わが愛する者よ。<6:4>
あの方は語ります。彼女の行動によって、あの方の彼女に対する愛は変わることはありませんでした。彼女はあの方が去っていったという環境によって、あの方がもう自分自身のところに戻ってくることはないと考えましたが、あの方の彼女に対する愛はより深いものとなりました。

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。<コリントⅡ4:18>

あの方は語ることで、一体、何を彼女に伝えたかったのでしょうか?
私は、環境に目を奪われて、大事な言葉の真の意味を取り違えることに注意する必要がありそうです。

「恐れないで、ただ信じていなさい。」<マルコ5:36>

御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
ハレルヤ!

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