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2012年1月16日(月) 創39-41ルカ16 竹村

創世記41章29~32節
今すぐ、エジプト全土に七年間の大豊作が訪れます。それから、そのあと、七年間のききんが起こり、エジプトの地の豊作はみな忘れられます。ききんが地を荒れ果てさせ、この地の豊作は後に来るききんのため、跡もわからなくなります。そのききんは非常にきびしいからです。夢が二度パロにくり返されたのは、このことが神によって
定められ、神がすみやかにこれをなさるからです。

ヨセフはパロの前で先の大豊作、後のききんを神からのものだとして言い伝えました。
そしてこの通り物事が起こりました。今日でも、先日の礼拝でもあったように、世界各国で多くの飢餓、紛争、国同士の駆け引き、自然災害あまり日本では報道されない、報道されても小さな出来事可のように報道され、遠い国で起こった小さな出来事のように受け止めてしまう私たちがいます。
しかし私たちにはこのことを、予告する事は出来ません。しかし本当に目を覆うような出来事がよく起こっています。
時に私たちは祈りによって右に進もうか左に進もうか決める事があります。

私は何年か前に就職の事で神様に熱心に祈りました。そして今の会社に就職しました。そして最近の会社の状況というと、過去に一度も無い量の仕事の量がしかも、この毎年一番忙しくないであろう一月に入ってきて会社中が大慌てで対応している状態です。
幸いな事に私の課は、そうでもなく、毎年と同じか少し多いかぐらいなのですが、このように、会社の繁栄は、最初、会社に入社したときは考えもつかず、ただ目の前の仕事をがむしゃらにやってきただけなのに気が着くと、結果的にこうなっていたという、神様の計画がありました。もちろん私はまだ肉体の人生が終わったわけではないので走り続けなくてはならないのですが、神様の計画から外れないように、いつも神様に聞きしたがう生活をしなければならないと思いました。

2012年1月17日(火) 創42-43,詩5,ルカ17 真由美

ルカ17:4かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、「悔い改めます。」と言って七度あなたのところにくるなら、赦してやりなさい。

普通にここを読んで。わぁ、何と神さまという方は心が広いんだろう と、思ったとか思わなかったとか。
初めて読んだ時は、そうか、赦さなくてはならないんだ と、「やらなくてはならないこと」として受け取った。私たちがイエス様によって赦されたという事実を脇に置いて。
赦しなさい自分も赦されるためです。ということを教わり、そうかナルホドねと思ったけれど、ここの御言葉は、一日に七度の罪も赦しなさい とあって、もうそんなに多いと冗談じゃなかろうかというレベルで、また?今度は何?と、赦すとか赦さないとか以前にこっち来ないでかかわらないでと言いたくなってしまう。だってあんた、なんだって私に七回も謝ってんの?わざと?と皮肉すら言ってしまうんじゃないかと思う。
私たちが何度も罪を犯してもイエス様によって赦されたという事実を脇に置いて。

ここで気づいたのは、赦す側 ではなく、悔い改める側 がいる ということだ。
絶対自分が罪を犯された方だったらさっきみたいに返り討ちにしちゃうのだから、もし、自分が謝りにいく方だったら腰がひけちゃって、一度や二度は行けるかもしれないでも七度も謝りにいけないなぁ と思った。しらばっくれるか、隠れるか、ウソをつくか。。。たぶん逃げる。ああもう消えていなくなってしまいたいと思うに違いない。七度罪を犯して、七度悔い改めます と言うのは大きな勇気を必要とすると思った。
そんな勇気をもってやってくるのだから、受け入れてやりなさいということだから、私たちが勇気をもって悔い改める時、それは受け入れられるということだとも思った。
そして、私たちのそんな勇気を、イエス様は受け入れてくださっているということだ。
エレミヤ2:32わたしの民がわたしを忘れた日数は数えきれない(先日のアイソムででてきた御言葉~)
たぶん私たちは自分が気づいていない罪も沢山犯している。主を忘れた日数が数え切れない と主がおっしゃるほどに。
そのすべてがイエス様にあって赦されている。私たちがイエス様の前に勇気をもって悔い改めるなら。

2012年1月18日(水) 創44-46,ルカ18 初穂

箇所:創45:4,5
「どうか私に近寄ってください。」
「私はあなたがたがエジプトに売った弟
ヨセフです。今、私をここに売った事で
心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。
神はいのちを救うために、あなたがたより
先に私を遣わして下さったのです。」

ヨハネは神様のみこころの中で、試練に遭い
そこで訓練され、また祝福され、自分を売った
兄弟たちに再開した時
家族のいのちを救う事ができた。

神様のみこころやご計画、自分の至らなさ、
サタンの攻撃、人の悪巧みなどで
生きていると色々ある。
しかし、神様のみこころは私たちの理解をこえて
はるかに素晴らしく、
その恵みがすべてを覆う。

その事を知っていても自分はなかなか平安を保つ事
ができない。渦中にいる時は頑張って信じている
ような状態が多い。
これがテストだったら失格だなと思う。
今度こそ、神様に委ねたいと思わされる。

ルカの章では神の国はこのような者たち(子供達)
のもの。子供のように神を
受け入れるものがそこに入れると書かれている。

確かに幼い子供だったら純粋に神に委ね、信じる事ができそうだ。

神の国はそのような者たちのものだとイエスは言う。

子供は愛すべき存在だが、手が離れるまで大人の手が必要だ。
自分では何もできない。忙しい時に手間を増やす。

そんな子供から学ぶべきところがあるようだ。
神の国に入れるヒントが案外身近にあった。

2012年1月19日(木) 創47-48,詩10,ルカ19 宇津木

ルカ19:46
こう言われた。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」

1日を振り返った時に祈る時間がとても少ないと思いました。そして仕事で疲れてるからと自分で言い訳している時もありました。でもその事を怠ることによって自分の力でやることが多くなり、良い方向にいかなくなっていくのだろうと思いました。人間関係が悪くなったり、仕事もうまくいかなくなったり。祈ることはとても大切なことだと確認しました。

2012年1月20日(金) 創49-50,詩8,ルカ20 鉄&桃

S: 創世記50章19節~21節

 ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。

O: ヨセフの信仰と人間性、そして、神様のご計画。

A: 今、自分の問題に目を向けて見ると、「あの人、赦せない」「神様、なんで?」「俺ばっかり」・・・etcと文句ばっかりです。このヨセフの話(信仰、神様の御業)を知っているので、文句ばかりではなく、自分の今の問題を通して神様が何をしよう、教えようとしているのか、に目、心を向けてデボしたり、祈ったりして行こうと思いました。あと、神様が造られたこの世界「創世記」の最後の登場人物のヨセフのように、自分を傷付けた相手に「慰め、優しく語りかけられる」ようなクリスチャンになりたいな。

P: 神様、ほんとに弱い信仰を赦して下さい。もっとあなたを信頼し、希望と喜びに溢れたいです。生活とか問題とかではなく、心が満たされますように、平安を与えてください。信仰を与えてください。アーメン。

2012年1月21日(土) 出エジ1-2,詩88,ルカ21 友里恵

 イエスが言われた、「あなたがたは、惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。
 彼らについて行くな。 あなたがたが放縦や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけないとき、その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように、よく注意していなさい。
 その日は地の全面に住むすべての人に臨むのであるから。 これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい」。
(ルカによる福音書 21:8, 34-36 )

 前回の礼拝の御言葉と同じ箇所でした。この御言葉を読み、もし今聖書で書かれている日が今来るなら、単純にやばいと思いました。
私が信じる神は一つで、それは変わらないと思っていても、この世の惑わしやそれを名乗るものが現れた時、神様と私の関係が弱いものであったら、簡単に惑わされてしまうかもしれません。
 神様を信じ、終わりの日が存在することを知っているのに何もしないでいいのだろうか。まだ、その日は来ないと思って神様との関係を疎かにしていいのだろうかと考えました。
 御言葉にあるように、その日は罠のようにやってくるかもしれない。だから、自分についても、周りの人についても準備しようと思いました。まず、自分と神様の関係をもう一度整えて、次に周りの友達に伝えて行きたいです。そのためにまず、毎日、祈ることから始めようと思います。

2012年1月22日(日) 出エジ3-5,ルカ22 久保

さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。主はモーセに会われ、彼を殺そうとされた。そのとき、チッポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り、それをモーセの両足につけ、そして言った。「まことにあなたは私にとって血の花婿です。」

そこで、主はモーセを放された。彼女はそのとき割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。<出エジプト記4:24~26>


聖書においては、いくら考えても、難解な箇所が少なからずあります。この箇所もそのひとつではあります。モーセが何故、神に殺されそうになったのか?モーセは結局割礼を行わなかったのではないか?「血の花婿」とは?等、この短い箇所には謎だらけです。

今回は、そんな謎では無く、ミデヤン人の妻であるチッポラの行動について触れたいと思います。そのミデヤン人は、アブラハムの子孫ですが、イスラエルの民ではありません。


アブラハムは、もうひとりの妻をめとった。その名はケトラといった。彼女は彼に、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデヤン、イシュバク、シュアハを産んだ。<創世記25:1~2>

イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。<創世記21:12>

そして、この後のチッポラは、一旦、帰された後、イテロと一緒に来たことが記されていますが<18:2>、レウエル(多分、イテロでチッポラの父)の子が道案内をしたり<民数記10:29>、最後はモーセがミデヤン人に復讐を命じたり<民数記31>する中で、どうなったのでしょうか?

さて、今日の箇所においては、行動として、モーセを救ったのはチッポラです。チッポラの行動無しでは、主はモーセを放すことは無かったでしょう。イスラエルの民では無いチッポラが、割礼という行為自体は知っており、とっさに、モーセと息子が、割礼が施されていない点に問題であると考え行動したのです。


包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。<創世記17:14>


チッポラは、人間的にモーセを愛していたことでしょう。小さな家族でも、平和に暮らしたかったことでしょう。そんな、素朴な純真な愛が、モーセを救う方法を一瞬にして、見いだし行動したのです。その結果、モーセ自身は肉体的な割礼を施されることはありませんでしたが、数々の主の御業を間近に見ながら、何か躊躇していた心を一新させました。


外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。<ローマ2:28~29>

チッポラは、主がモーセを殺そうとされる必要をそこに見て、主がモーセを救う必要をもそこに見いだしました。彼女は、自分がどうなるかではなく、自分がすべきことを知った瞬間、即、行動しました。チッポラには、イスラエルの民がどうなるかは関知することではありませんでしたが、モーセと主の関係を一瞬にして理解し、その時、すべきことをしました。彼女の望み通り、モーセは放されました。

モーセは、ミデヤン人の妻であるチッポラの行動により殺されずにすみましたが、後には、自分の思いとは関係なく、ミデヤン人に復讐する事を命じ、その時、すべきことを実行しました。モーセの命じた通りに、ミデヤン人は殺されました。

彼らは主がモーセに命じられたとおりに、ミデヤン人と戦って、その男子をすべて殺した。

<民数記31:7>


御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

ハレルヤ!

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