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2012年1月2日(月) 創3-5,ルカ2 竹村

マタイ2章1節
イエスがヘロデの時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、
見よ、東方の博士たちがエルサレムにやってきて、こう言った。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。
東のほうでその方の星を見ましたので拝みにまいりました。」

いよいよ2012年始まりました。

皆さんにとってはどんな年になるでしょうか。

すばらしい年になればと思います。

さてこの箇所はクリスマスでよく話される、イエス様の誕生のシーンですが、
今年のNLFCのクリスマス礼拝は本当にたくさんの方が来て礼拝に参加されました。
毎年毎年少しずつ人が増えていっているように思います。
私は毎年カメラの係りをして枠いっぱいの人を毎年見るのですが、本当にほほえましい
情景です。ある方と話をした時に「もうココもちょっと狭いね!!」という話になり
ました。私は目の前の事ばかりに気を取られていて、全く気がつかなかったのですが、顔を上げて周りを見渡すと、確かにコレだけの人数になると狭いな~と思いました。
じゃあ次はというのは全く具体性はないのですが、次はもっと違う形になるのかな~と、全く想像もつかない神様の計画の、始まりを予感させる一場面がありました。

今年のNLFCのスローガンとして
「時は近づいている」 
2012年の御言葉としてヨハネ4章35節となりました。
私ももうすぐそばまで来ていると思っています。
今年はNLFC全員で目を上げて畑を見、色づいて、刈り取るばかりになっているものを刈りに行きましょう。

2012年1月3日(火) 創6-8,ルカ3 真由美

創6:5主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。:6それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
私たち という存在を主は悔やまれた。
私たちは様々な教育を受け、人道的なことは何か、モラルやマナーや(人によって考え方は違うと思うけど)厳しく耳が痛くなるくらい教わってきた。でも時々逆らってみたりもしたし知らん顔もしたし何度言われてもそのとおりにできないこともあった。廊下を走ってはいけませんよ~。いまだに走るー。ゴミが落ちてたら拾いましょうね~。あ、髪の毛に埃がついてたポイッ。人の悪口を言ってはダメですよ~。ちょっと聞いてよあの人ったらねー。でも、そこそこ自分はいい人だと思っていたりする。
まだ、律法がなかった頃。人は自分の思うとおりに生きていた。自分の欲しいものを手にいれ、自由に生きていた。アダムとエバは善悪の知識の木の実を食べた。幼かった私は友達のおもちゃをとりあげた。
決まりがあっても守れなかった。人の心に計ることはいつも悪いことだけに傾く。ほんとだ。
創8:21主はそのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。
すべては水に流された。主の御心にかなう者以外は全て。そして、やろうと思えばそれ以降だって同じことができたに違いない。あーもう。またかよ。人間なんて。人間なんて。いいもんね。また水に流しちゃうもんね。って。まあ神さまが失敗するって事はないから、何度もおんなじことはしないかもしれないけど。そしてもう二度と人を滅ぼさないとおっしゃった。でも、それは、ノアのいけにえ後だ。主はそのなだめのかおりをかがれ。
私たちの祈り 賛美はなだめのかおりだと教わった。主の御心にかなうノア(クリスチャン)の、聖い家畜を(自分の持っている最も聖い信仰/ユダ:20元日礼拝でおそわりましたね!)ささげたなだめのかおり(私たちの祈り 賛美)で、主はすべての生き物を打ち滅ぼすことはしない とおっしゃった。文字どおり水に流された。
私たちクリスチャンはべつにいい人じゃない。できる人でもない。すごい人でもない。正しい人でもない。決まりも守れていない。イエス様を信じてるってだけ。そして御心に従いたいと願っているだけ。そんな私たちの祈りでも、この地はのろわれない。すべての人はほろぼされない。
ノアのように、聖いささげ物をしよう。主の約束を私たちのものにしよう。 

2012年1月4日(水) 創9-11,ルカ4 圭希


2012年1月5日(木) 創12-14,ルカ5 宇津木

ルカ5:11
彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。
5:28
するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。


いつも、必要以上には触れないようにしてる箇所だったかな・・・
その理由は、自分には絶対できないから。 子供を捨て、住まいを捨て、仕事(収入源)を捨て・・・ 無理だ絶対できない。

でも、この壁を打ち破らなければ先に進めない気がして。 もしかして 自分の想像してる事とは違う事を主は望んでおられるのか? 信仰をみておられるので、一生 何もかも失う訳ではないのか。 でも、まだ、スッキリしないのです。 騙されているのかもしれない。 一時的な献身では無くて、生涯にわたる献身が根付く事を望みます。

あと、今年はもう少し仕事量が減って他の事に時間を回せるように祈ります。

2012年1月6日(金) 創15-17,ルカ6 鉄&桃

S: ルカ6章41、46節
   41節 あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気づかないのですか。
   46節 なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。

O: 以前は、自分は『主よ、主よ』と叫ぶほどの信仰がなく、この箇所を読んでも自分にあてはめず、「あの人のことだ」、「この人のことだ」と裁いていただけだった。でも、最近は『主よ、主よ』と思うことがあり、自分にもあてはまることに気づきました。
あと、今更ながら、ちりと梁の大きさの違いにも気づかされました。

A: 自分の『主よ、主よ』は、世の中の「神様、仏様、~様」に似ていると思わされました。主の御心を求め、御言葉を行えるようになりたいです。そのためにももっと真剣に聖書を読み、聖書の御言葉を通して神様の『声』を聞けるくらいに信仰を深めていきたいです。
余談ですが、僕は最近建築現場で働くようになりましたが、意外と梁に気づかず、ヘルメットに助けられる時が多いです(笑)。

P: 今年一年、先が見えないですが、主に希望を持てる特権を感謝します。すでに僕の周りでは、あまり嬉しくない情報などが入ってきていますが、信仰が揺さぶられることなく、しっかりと建てられますよう守ってください。アーメン。

2012年1月7日(土) 創18-19,詩3,ルカ7 Bright

詩篇 3章5節

S 私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。

O 私が寝ても また、目が覚ますことが出来るのは神様がいるからなんだ とこの文は述べてる

A 私が今、普通に生きていけるのは神様が支えてくれてるからなんだなと思いました。

P お祈りします 神様、今まで私を生かしてくれてありがとうございます これからも楽しく生きていけますように アーメン

2012年1月8日(日) 創20-22,ルカ8 久保

イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられた。<ルカ8:56>

この8章の前段で、ゲラサ人の地方で悪霊に憑かれた男が正気に戻った時、主イエスは、話して広めるように、言われました。

「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」そこで彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めた。<8:39>
そして、娘が生き返った現場に居合わせたヤイロの家族には、全く逆のことを命じられました。
なぜだろうか?その意味は?と考えてしまうかもしれません。

イエスは彼に言われた。「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。」
<マタイ8:4>
イエスは彼らに、「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない。」と命じられた。<マタイ8:4>
するとイエスは、このことをだれにも話さないようにと、彼らを戒めて命じられた。
<ルカ9:21>
等、その他の箇所にも少なからずあります。
それらの箇所をこういう場合はこうだから、こうしなければならないという類型化しても、あまり、意味のあることではありません。というよりその考察自体が、主の行動を自分の評価基準で判断していることになります。自分が納得出来ることが、神の命令より正しいのでしょうか?
私は自分の尺度で他人を計るだけでなく、神をも計っているのです。そして、今更ながら、それが大いなる神への反逆に他ならないことを知るのです。

わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。<ヘブル3:18~19>
なすべきことは、「話したい」「話すべき」という意思に関係なく、主が「話して聞かせなさい」と命じれば「話して聞かせ」、主が「話さないように」と命じれば、「話さないように」するだけなのです。
私達は、神に従わない選択をした者なので、自分の意思を最優先に考えていましたが、神の恵みにより、神に従う選択をした事で、自分の意思を棄て神に完全服従する者となりました。
主が雨上がりの水たまりの泥水を飲みなさいと命じられた時、主はどんな汚いものでも清める力を持っていることを信じているから飲むのではなく、主が命じられたから飲むという完全な服従が求められます。

今、聖霊により、教会の兄弟・姉妹にさえも黙って一人で、自分以外の人の為に祈る命令を受けている人がいます。その人は話さないことが主へ栄光を帰すことになります。
今、聖霊により、教会の兄弟・姉妹に大いに話し広めグループで、自分以外の人の為に祈る命令を受けている人がいます。その人は話すことが主へ栄光を帰すことになります。

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。<マタイ16:24>

御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
ハレルヤ!

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