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2016年8月21日(日) エレミヤ21,24,27,詩118,Ⅰヨハ2   過去のデボーション

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2016年8月22日(月) エレミヤ28-30,Ⅰヨハ3 久保  

 
あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。<エレミヤ29:12~14>

私が主を呼び求めて歩き、主に祈るなら聞いて下さり、捜し求めれば主を見つけると言われ、更にわたしはあなたがたに見つけられると言われました。
人が求めない限り、見つけることは出来ませんが、その思いを公言する事とは記されていません。主は心の奥底まで見られます。どういう理由かは解りませんが、思いだせない程の過去に完全に封じ込め、忘れ去った思いさえ、主は見られます。自分でさえ気付かない封印された思いを主は見られ、私達に見つけられてしまう方です。
とすると、この事は、何の成果もないように、しかも、時には虚脱感さえ覚える福音を伝える事に大きな意味が隠されている事を見出します。
私は、何故か、高校時代のある先生を思い出しました。決して良い学生では無かった私を、涙を流しながら叱って下さった方です。他の先生には、平気で逆らう事が出来たにもかかわらず、この先生だけは、正直、苦手でした。卒業まではもちろん、卒業してからも全くそのアドバイスに従うことはありませんでした。
私は40歳を過ぎて、信仰の恵みを受け取ることが出来ましたが、その何年か後にその先生が亡くなられた事を知っていましたが、その時もどちらかというと苦手だったなという思いが優先しました。しかし、突如、その先生が、私に信仰の種を植えて下さった事を実感したのです。何十年も前に、真に愛を実践する人と出会っていた事を、今更、完全に知ったのです。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
愛は決して絶えることがありません。<コリントⅠ13:4~8>
正に、そういう先生でした。それが、今わかります。先生が地上にいる間、何の感謝も出来なかった私ですが、今、先生が神とともにあったことを知っています。そして、今も、主と共にあることも知っています。

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。<ヨハネⅠ4:16>
私が神を愛するのであれば、私のうちにも神がおられます。そして、福音の言葉によって、その人の内側で、いつか、芽生える為に、私は伝えなければなりません。

事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
<コリントⅠ1:21>
その方は、修道士でありながら、英語の教師をされていました。残念ながら、その時、先生に喜んで頂けることは何も出来ませんでした。正に、当時は、福音を愚かであると考えていたのです。しかし、その時の種が私を信仰に導いて下さった事は、確信出来ます。全く、見た目で、聞いてもらえそうもない人の内側が、主を捜し求めているかもしれません。そんな心に、もしかしたら、福音を伝えることが、主を見つける為の後押しになるかもしれません。事実、当時の不良学生である私が、今、主を知ることが出来たのですから。ちょっとだけ、時間がかかりましたが・・・。

天にいます我らの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。
みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負い目をお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人達を赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪から救いください。ハレルヤ!
 

 
2016年8月23日(火) エレミヤ31-32,Ⅰヨハ4 まゆみ  

 
1ヨハネ4:8愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

好きになることと愛することは別だ と教わった。
様々なコミュニティーの中においてどうも苦手な人というのはいる。
苦手の上をいくこともある。
できれば会いたくないなんてこともあるかもしれない。
でも、その人を好きにならなくても愛することはできると教わった。
大人な対応、社交辞令、うわべだけは笑顔
なるべく波風を立てないようにうまく社会を渡っていこうとするなら、それらはきっとたやすい。
あなたの敵の家畜が穴に落ちていたら知らんふりをしては行けない とどこかに書いてあった。
その家畜を救い出すことは敵を愛する事になる。
でも別にその敵のことはすきじゃない。
もし知らんふりをしたら
その敵を好きでもないし愛することもできていない。
もし救い出したら
神様が私を救い出してくださった愛がわかる。
信仰は感情ではなく決断
赦すことは感情ではなく決断
愛することは感情ではなく決断

その決断が沢山できるなら、
その決断の数だけ、
私は神様の事を知ることができるんだろう。
 

 
2016年8月24日(水) エレミヤ33-34,詩74,Ⅰヨハ5 飯塚師  

 
タイトル:「 私を呼びなさい」と言われる神
御言葉:エレミヤ33:2-3 「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。

 地を造られた方、すべてを造られた方、神が語ってくださっている。神を呼ぶならば答えて下さると。それなのに自分はどれだけ神様を呼んでいるのだろうか。自分の知恵や判断、力で物事をすすめてはいないだろうか。
朝神様を呼び、昼も夜ももっと神様を呼び求める者になりたい。

祈り:天のお父様、せっかくあなたが私を呼びなさいと言ってくださっていたのに、呼び求めることが少なかったことを御赦し下さい。すべての事で神様を呼び求める生活ができるように助け導いてください。イエス様のお名前によって祈ります。
 

 
2016年8月25日(木) エレミヤ37-39,Ⅱヨハ Tomoko  

 
 

 
2016年8月26日(金) エレミヤ50-51,Ⅲヨハ 新井  

 
S: エレミヤ書50章31、32節

 31 高ぶる者よ。見よ。わたしはあなたを攻める。-万軍の神、主の御告げ。- あなたの日、わたしがあなたを罰する時が来たからだ。 32 そこで、高ぶる者はつまづき倒れ、これを起こす者もいない。わたしは、その町に火をつける。火はその回りのものをすべて焼き尽くす。」

O: 僕が教えられた事は“高ぶる者(バビロン)”とは自分の中の高慢の部分ではないか。イスラエルは僕の「魂」で、神様は高慢によって魂まで滅びないように、高慢を焼き尽くし魂を救う。みたいな強引な解釈。

A: 神様が僕の高慢な部分をすべて焼き尽くして下さったほうがいいかもしれませんが、それは自分にとっても相当厳しいいと思うので、神様が手を下される前に悔い改めをしたい。

P: 神様、あなたが与えて下さり、返さなければいけない恵み、栄光が、いつのまにか自分のものになっていたものがあります。教えてくれてありがとうございます。もっとへりくだれますように。イエス様の御名によって祈ります、アーメン。
 

 
2016年8月27日(土) エレミヤ52,詩143-144,黙1 さかえ師  

 
S詩篇144:1
1
ほむべきかな。わが岩である主。
主は、戦いのために私の手を、
いくさのために私の指を、鍛えられる。


O主は戦いのために私たちの手と指を
鍛えられる


A戦略を練るのは体でいうと
頭の部分。でも、動かすのは手と個々の指だ
だからしっかりとそのことがなせるように、実際できるように鍛えて下さる
頭だけ、思考だけでは行えない


それも戦いに役立つため、有益であるためにーそれは鍛えられなければならない。鍛えないと用いられない

神様が戦いのために有益なものとするために
たくさんの神の働きが進んでいくために、私が鍛えられるべきところはどこだろう?

神を第一優先にすること
でも宗教的ならずに心から

p神様、へこたれない主の勇士に作り変えてください
ただ信じ事をなすだけでなく、主のために戦えるものになりますように