デボーション

感想・意見・質問はこちらへ


   
2016年7月31日(日) イザヤ63-64,詩107,ヨハネ2   過去のデボーション

2016 1 2 3 4 5 6

2015  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12

2014 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12

2013 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12

2012 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12

2011 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12

2010 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12

2009 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12

2008 8 9 10 11 12

 
 

 
2016年8月1日(月) イザヤ65-66,詩62,ヨハネ3 久保  

 
この民は、いつもわたしに逆らってわたしの怒りを引き起こし、園の中でいけにえをささげ、れんがの上で香をたき、墓地にすわり、見張り小屋に宿り、豚の肉を食べ、汚れた肉の吸い物を器に入れ、「そこに立っておれ。私に近寄るな。私はあなたより聖なるものになっている」と言う。「これらは、わたしの怒りの煙、一日中燃え続ける火である。」<イザヤ65:3~5>

私はトンカツが大好きです。しかし、今日の箇所には、豚肉を食べることが神の怒りの原因のひとつであると記されています。

豚もそうである。ひづめは分かれているが、反芻しないから、あなたがたには汚れたものである。その肉を食べてはならない。またその死体にも触れてはならない。すべて水の中にいるもののうち、次のものをあなたがたは食べることができる。すべて、ひれとうろこのあるものは食べることができる。ひれとうろこのないものは何も食べてはならない。それは、あなたがたには汚れたものである。
<申命記14:8~10>
先日は、土用丑の日でしたが、私はうなぎを食べるのも好きです。結構、柳川鍋等、どじょうも好きです。イスラム教、ユダヤ教では豚やうなぎを食する事は厳格に禁じられています。イスラムの食材にハラールという認証がありますが、これには、醤油等の醸造段階でのアルコール発生も許されないそうです。では、クリスチャンである私は豚肉やうなぎを食する事は罪なのでしょうか?

見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」という声が聞こえた。しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」
<使徒10:11~15>
今は新約の時代なので、旧約に記されている事はリセットされたのでしょうか?

わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
主も律法がすたれることはないと言われましたが、完全遵守されるとは言われませんでした。

私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。<ローマ3:31>
パウロは、律法が無効になるのではなく、確立するものであると言われました。とすると、律法や戒めが何かを達成する為の方法の重要な一つであるという事なのかもしれません。

食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人の場合は、悪いのです。<ローマ14:20>

次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。<コリントⅠ8:1~3>
聖書に記されているという知識のみを吸収する時、それは高ぶりしか生みません。キリスト教と支配者が一体となった時、聖句を自分の都合の良いように引用を、神を崇めるのではなく、自分を安泰にする方法とした歴史が、過去に少なからずあります。いつか、聖書を通じて神と個人的に深い関係を築いた時、私は何を受け取り、私は何をすべきかが、明らかになるように思います。

天にいますの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。
みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負い目をお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人達を赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪から救いください。ハレルヤ!
 

 
2016年8月2日(火) Ⅱ列21,Ⅱ歴33,ヨハネ4 まゆみ  

 
ヨハネ4:42
そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」

メッセージを聞いて、へぇそうなんだ!神様ってすごいんだぁ!と思っていても、それがなかなか自分自身と結びつかないということもある。自分の現実と別の世界の話のように思うこともある。
でもこの町の人達はえらかった。
話を聞いて、どれどれ会いに行ってみようか、ナルホド是非この町にもっと居てください、そうなんですかなんと素晴らしい!
となった。
その話はほんとうなのか?自分で真実を求めて自ら会いに行って、答えをもらってくる。
ポイントは、自ら会いに行く ということ。
人の話した人の体験だけじゃなく、自分も求めていく。
神様は求める者に与えてくださる方だから

「自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです」
と、たくさん言いたい。
 

 
2016年8月3日(水) ナホム1-3,ヨハネ5 飯塚師  

 
タイトル:今はただ待つよりも・・・
御言葉:ヨハネ5:5-9 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。・・・

3節後半、4節によるとベテスダの池には時々主の使いが降りてきて水を動かし、動かされた後に最初に池に入った人はどんな病でも癒されたとあります。そのために大勢の病人が水の動くのを今か今かと待っていたとあります。しかし、いつそのことが起こるのか誰もわかりません。また、最初の一人だけしか癒されません。そのためにこの男性は38年も病気のままだったのです。
 しかし、今はただ待ち続けるよりも、また一人だけという制限からも解放されています。
イエス様の贖いにより、癒しの道が開かれました。求めて、祈っていくことが出来ます。
自分自身に対して、周りの人々のためにもイエス様によって与えられた権威、力を用いていきたいです。

祈り:天のお父様、今はイエス様の十字架によってただ待つのではなく、積極的に癒し、解放を求め受け取れることを感謝します。さらにイエス様の栄光をあらわしていけますように助け導いてください。イエス様のお名前によって祈ります。
 

 
2016年8月4日(木) Ⅱ列22,Ⅱ歴34,ヨハネ6 Tomoko  

 
 

 
2016年8月5日(金) Ⅱ列23,Ⅱ歴35,ヨハネ7 新井  

 
 

 
2016年8月6日(土) ハバクク1-3,ヨハネ8 さかえ師  

 
Sヨハネ8:11-12
11
彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」〕
12
 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」


O姦淫の現場で捕まえられた女にイエス様はこのように言われた
彼女が自分の罪を認めたり悔い改めている記述はない
でも、イエス様は、彼女の心のうちをわかったのか、それとも、まず愛を示そうとされたのか、罪に定めないと言われた

A何度も読んだところだけど、新たに示された。姦淫の現場から来たその女性に関わり、身をかがめて自分に注意を寄せ、赦しまで宣言する。神様の愛はなんてすごいんだろう。

人を愛する愛だけでなく、
人のために、関わることによって、
誤解、非難、嘲り、、、
自分が石で打たれる危険だってあっただろう
愛のゆえに苦難を受け入れるのは難しい。愛するのさえ難しいのに、自分を犠牲にするのはもっと難しい
イエス様の十字架はその究極
でももっと日々の細かいこと、生活のなかでそれをして下さっていたことに気づいた

私はまだ人からどう見られるかとか気にするし、たとえ犠牲を払えたしても
誰かに理解して欲しいとか思う
まだ利己的だ

P神様、今日あなたの自己犠牲の愛を教えてくださってありがとうございます
聖霊によらなければ到底することができません
どうぞ、あなたの導きのまま私をその時々に作り変えてください。アーメン