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2016年2月28日(日) 民25-27,マルコ7   過去のデボーション

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2016年2月29日(月) 自由 久保  

 
キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。<ガラテヤ5:1>

今回の担当箇所は自由とありましたので、文字通り自由について考えたいと思いました。
今日の箇所によれば、自由と奴隷が対比されているのでしょうか?私達は何の奴隷から解放されたのでしょうか?
少なくとも、日本で暮らしている限り、理不尽な束縛を感じることはありません。しかし、キリストは自由を得させる為に私達を解放してくださったとするのなら、その何かがあった筈です。そして、その何かの束縛から、私達は信仰の恵みを受け取ることで、解放されたのです。

しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。
<ガラテヤ4:8>
本来神ではない神々とは、何のことでしょうか?まずは、異教のことであるでしょう。しかし、それらは本来の神ではなく、神の敵対者が自分達の都合で造り出したものである場合と、人が自分達の都合で造り出したものである場合があります。それだけでなく、父なる神を信奉しながら、全く違う宗教が存在さえします。しかし、愛ではない神と言われるものは、本来の神ではありません。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。<ヨハネ14:6>
私達が知っている福音は、主イエスを通してのものです。

聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。
<ガラテヤ3:22~25>
ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています。<ガラテヤ4:9~10>
信仰より、信仰しているという姿を人に見せる為の形式をパウロは、無価値な幼稚な教えとまで言っています。

また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
<マタイ6:5~7>
主イエスも厳しく、戒められています。

主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。<コリントⅡ3:17>
信仰は、確かな聖霊との交わりです。だからこそ、真の自由がそこにあります。私達は、信仰という真の自由を得ながら、他の人に対して、形式という幼稚な教えを強要することにより、真の神の姿を妨げている場合があるのかもしれません。個人と神の関係をより強くなるということは、真の神の奴隷となることが、真の全てに対する自由を得ることであることを実感することなのかもしれません。

天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。
みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負い目をお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人達を赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪から救いください。ハレルヤ!
 

 
2016年3月1日(火) 民28-29,マルコ8 まゆみ  

 
民数記29:39
あなたがたは定められた時に、これらのものを主にささげなければならない。これらはあなたがたの誓願、または進んでささげるささげ物としての全焼のいけにえ、穀物のささげ物、注ぎのささげ物および和解のいけにえ以外のものである。

28・29とずっと、なだめのかおりとして、また贖いの罪のためのいけにえとして、あれとこれとそれをこれだけずつささげるように と書いてあって、でもそれらはどこまでいっても贖いのためものであって、誓願のためとか、和解のためとかはまた別の話だからねって書いてある。

おおお。
これだけのものをささげてやっとゼロになれるのか。
まだ和解までいかない。マイナスがゼロになっただけ。
毎日これを1匹あれを2匹、何日目にはこれをどんだけあれをどんだけ。

マルコ8:37
自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。

私たちは今、持っているものを全てささげても自分のいのちを買い戻すことはできないと知っている。どれだけ捧げてもゼロ。
私が持っているもの全て 私のいのちも含めて全て
私のいのちを差し出してもまだゼロ。
和解には何が必要?

イエス様

イエス様の十字架で和解するよって神様が言ったから

だからこれは宗教じゃない
儀式じゃない
だって儀式をいくらやったって買い戻せないんだから
イエス様の十字架だけが意味がある
だってこれは神様が決めたことだから

あと1か月でイースター
差し出されたイエス様のいのち
復活を喜ぶとともに差し出されたいのちを覚えていこう
 

 
2016年3月2日(水) 民30-31,マルコ9 飯塚師  

 
タイトル:主のための戦い
御言葉:31:3 そこでモーセは民に告げて言った。「あなたがたのうち、男たちは、いくさのために武装しなさい。ミデヤン人を襲って、ミデヤン人に主の復讐をするためである。

モーセは2節で神様から「ミデヤン人にイスラエル人の仇を報いよ」と言われました。3節では主の復讐となっています。イスラエル人のため、自分たちのためではなく、主のために戦いをすると意識していました。

学んだこと:神様から言われたことはすべて神様のためである。自分たちのため人のために福音を伝えるのではなく、神様のために伝道する。神様の御名があがめられるように、御心がなされるように、神様のために祈るなど。・・・すべて神様のためにということを意識して生活していきたい。

祈り:天のお父様、私たちはあなたのために創られました。とかく自分のために生活してしまいがちです。あなたのためを意識して生活できるように助け導いてください。イエス様のお名前によって祈ります。
 

 
2016年3月3日(木) 民32-33,マルコ10 Tomoko  

 
マルコ10・13-16
さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」
そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

なぜ弟子達 は、子供たちをしかったのだろう?
ふざけていたから?うるさく騒いでいたから?もしかしたら大人しかったかもしれない。
子どもだから軽く見たのかな?
何の不自由もなさそうな健康そうな子ども達は、イエス様の近くに行く資格がないと思ったのかもしれない。
もっと、地位も名誉もある大人が深刻な相談をしていて、そちらの方が大切なことに思われたのかもしれない。

小さな子どもって、とても可愛い。
目があうとニコッと笑ってくれる。
すぐに一緒に遊ぼうとしてくる。
お母さんに手を引かれながらも、後ろを振り向いて「バイバイ」をしてくれる。
別れた後に、喜びと清々しさを残してくれる。
超わがままで、超自己中かもしれないけど、超素直で、悪意がない。
なん て素敵な存在。
イエス様は子どもが大好きなんだ。
何の不自由もなく健康な子ども達を、もっともっと祝福したいと思って下さったのでしょう。
そして、子どものように神の国を受け入れる者でなければ、天の御国へ行かれない、と言っておられます。
大人だから偉いのではない。多くの大人は、超わがままで、超自己中で、超素直ではなく、悪意がいっぱい。
だから、子どもを見習って、超素直になるべきだ。子どものように素直になれるように祈ろう。
私は子どもよりも価値がある、なんて思ってはいけない。
すべての人を自分よりも優れた者だと思いなさい、と言われたお方は、私がへりくだって子ども達を敬い、大切な人に接するのと同じように接することを望んでおられるのでしょう。
そう、イエス様に接するように。

イエス様は、病の人にも優しい。悲しんでいる人、苦しんでいる人にも優しい。でも、幸せな人にも優しい。
なんて素敵な神様。感謝します。
 

 
2016年3月4日(金) 民34-36,マルコ11 新井  

 
 

 
2016年3月5日(土) 申1-2,マルコ12 さかえ師