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2016年2月22日(月) 民10-11,詩27,マルコ1 久保  

 
そこでイエスは、彼をきびしく戒めて、すぐに彼を立ち去らせた。そのとき彼にこう言われた。「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々へのあかしのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめの供え物をしなさい。」ところが、彼は出て行って、この出来事をふれ回り、言い広め始めた。そのためイエスは表立って町の中に入ることができず、町はずれの寂しい所におられた。しかし、人々は、あらゆる所からイエスのもとにやって来た。<マルコ1:43~45>

カペナウムにおいて、ハンセン病で苦しんでいた男を主イエスは完全に癒されました。しかし、主は、誰にも言わないで祭司に見せなさいと言われました。

彼は、傷のない雄の子羊二頭と傷のない一歳の雌の子羊一頭と、穀物のささげ物としての油を混ぜた小麦粉十分の三エパと、油一ログとを持って来る。きよめを宣言する祭司は、きよめられる者と、これらのものを主の前、会見の天幕の入口の所に置く。 <レビ14:10~11>
主イエスにとって、癒しは奇跡でも何でもなく、必然です。しかし、目的は癒しではなく、福音を伝えることです。ですから、主イエスに癒された男に、癒されたという事実以上に重要な全能なる神への感謝を促したのではないかと考えます。そして、見た目の奇跡的なことは、神ではなくても(信仰がなくとも)可能な場合があります。

アロンが自分の杖をパロとその家臣たちの前に投げたとき、それは蛇になった。そこで、パロも知恵のある者と呪術者を呼び寄せた。これらのエジプトの呪法師たちもまた彼らの秘術を使って、同じことをした。彼らがめいめい自分の杖を投げると、それが蛇になった。<出エジプト記7:10~12>
福音を伝えることが裏打ちされていない奇跡的な現象は、神にではなく、人への賞賛、崇拝を生みだします。

イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。<6:4~6>
この箇所は、人々が不信仰であるから、主イエスに力あるわざを発揮する能力がなかったのではなく、それが信仰に結びつかない事を知っていたので、行わなかったのです。神が主であり、人の行い・行動が主であることはあり得ないからです。
とすると、癒した男が言い広めることも主は知っていたのでしょうか?
主イエスは表立って、町の中に入ることができませんでした。

数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。<2:1~2>
主は人の選択を尊重されますが、人の選択によって、主の御計画が阻害されることはありません。正に、それが、全ての人の神である所以なのです。そして、全ての人の神であるという事は、個人個人の神との関係が最重要であることのいわれとなります。


天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。
みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負い目をお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人達を赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪から救いください。ハレルヤ!
 

 
2016年2月23日(火) 民12-13,詩90,マルコ2 まゆみ  

 
詩篇90:17
私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。

これを別訳で呼んでみた。

「どうか、私たちに目をかけ、することなすこと成功させてください。」
‭‭詩篇‬ ‭90:17‬ ‭JLB‬‬

だいぶざっくりと意訳されていて笑ってしまったが、つまりはそういうことだ。

これはモーセの祈りだ。
神の人モーセは謙遜な人で、することなすこと全て神にゆだねていた。
ずいぶん大胆な祈りだなあと思ったが、これでいいんだとわかった。
することなすこと成功させてくださるのは、神様以外にはいないからですという告白の祈りだ。
手のわざを祝福してください と今まで祈っていたが、ちょっとかたい感じがしていたので、これからはそうやって祈ってみよう。
することなすこと とかいうとちょっと欲張りな感じもするけれど、神様はなんでもできるんだから、なんでも求めていいんだと思う。
お父さんをもっと身近に感じたいし。
いつでもお父さんの膝の上にのって、こう言おう。
たすけてねって。
 

 
2016年2月24日(水) 民14-16,マルコ3 飯塚師  

 
タイトル:神は遠く離れておられるのか
御言葉:民数記14:10-11 ・・・そのとき、主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエル人に現われた。主はモーセに仰せられた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行なったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。

 カナンの地をさぐりに行き帰ってきた12人のうち10人が信仰によって物事を見るのではなく、現実だけを見て否定的な報告をしました。そのことを聞いた民は神様が共にいてくださらないかのように、泣き、叫び、つぶやきました。そのとき突然主の栄光が現れました。
神様は決して遠く離れていたわけではなく、いつも彼らの真ん中におられたのでした。

普段肉眼で神様を見ることが出来ないからといって、神様がいないわけでも、遠く離れてしまったわけでもありません。神様はイスラエルの民の真ん中におられたように、今も私たちの中におられます。そして、私たちの言動を見ておられ、私たちが信仰に立って生活して欲しいと願っておられます。現実を知る、見ることは必要です。しかし、その後で信仰によって決断することがもっと大切です。

祈り:天のお父様、あなたは私たちから遠く離れておられるわけではありません。私がいつもあなたを意識して生活するように、また、御声を聞いて信仰に立つことが出来るように助け導いてください。イエス様のお名前によって祈ります。
 

 
2016年2月25日(木) 民17-18,詩29,マルコ4 Tomoko  

 
マルコ14-20
種蒔く人は、みことばを蒔くのです。
みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。
同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、
根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞いてはいる が、
世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。
良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。

もちろん、良い地に蒔かれた種でないと実を結ばない。
道端、岩地、いばらの中、といった状態の人は、実を結ぶことが出来ない。
実を結ぶことが出来ないと、滅びに至る。
それはダメだ。
私達は、人が「良い地に」なるように、まず祈ることがとても大事なんだ、と思いました。
もっと祈る。とにかく祈る。
・・・今年のNLFCの目標だー
私の祈りは、大事な人が救われますように、というものが大半だけど、「その人が、まず良い地になりますように。」という祈りを 加えよう!
それから、種を蒔けるように祈ろう。
そうだ!それから、道端どころか、アスファルトだらけの日本。
アスファルトを溶かして頂いて、なくなるようにも祈ろう!

祈り:愛する天のお父様。私の大事な人達を、良い地に変えて下さい。そして、種が蒔かれますように。そして、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶことが出来るように導いて下さい。このお祈りを、愛するイエス様のお名前によって祈ります。あーめん。
 

 
2016年2月26日(金) 民19-21,詩28,マルコ5 新井  

 
S: マルコ5章40節

 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出しただその子どもの父と母、それにご自分の共の者たちだけ伴って、子どものいる所にはいって行かれた。

O: イエス様はあざ笑われた。イエス様もあざ笑われた。

A: 僕は今の職場では、みんなにクリスチャンだと告白しているが、仕事ぶりが余りにひどく、「新井君、教会行ってもミスばかりしているから、お寺に座禅を組みに行ったら。」とバカにされる。自分がクリスチャンという事で、僕の職場の人は僕を通してイエス様の存在価値を低く見ていると思う。その事に対してイエス様に申し訳なく思うし、自分が情けない。でもある人が、「イエス様もよく人々にバカにされたよね。」と言ってくれた。僕の中でのイエス様は、完璧で(完璧なんだけど)強く(強いんだけど)人々が一目置く、威厳に満ちた方だというイメージが強い。だから、人々にあざ笑われても平気なんだと思っていたけど、その根拠は父なる神様を信じる信仰が僕とは遥かに違うんだ(比べるなって!)と感じました。当たり前ですが。そして、なにより僕自身がイエス様をあざ笑う時がある、と示されました。癒しの祈り、~の祈りのリクエストでも、自分の中での神様の御心で「これはしてくれない」「たぶん御心じゃない」「そんなこと神様はしない」と神様の奇跡を自分で低くし、また、そうゆう祈りをしている人に対して心のどこかであざ笑っていたと思う。

P: イエス様、自分が人にあざ笑われて、自分がイエス様をあざ笑っているのを教えてくれて、また、救いの君なのに人々に、僕にあざ笑われてくださってありがとうございます。あなたがあざ笑われた事によって、僕は励ましを受けました。ありがとうございます。ただあなただけを信じます。笑われても信じます。笑った人を取り計らってください。イエス様の御名によって祈ります、アーメン。
 

 
2016年2月27日(土) 民22-24,マルコ6 さかえ師  

 
S民数記24:13
『たとい、バラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、主のことばにそむいては、善でも悪でも、私の心のままにすることはできません。主が告げられること、それを私は告げなければなりません。』

Oバラクにイスラエルの民を呪うように頼まれても、バラムは主が告げられた事を告げると
告白した。

A私たちは、主の言葉に従いたいと思っている。
自分の行動、言動、態度ににおいて、また、人に対しても
それが預言的務めなら、なおさら間違った事は言えないと思うだろう。
でも、自分の言葉が銀や金、家などの価値のある物、高価なもの、お金と天秤に
かけられたらどうだろう。
一生、その事の報酬で楽に暮らせたらどう反応するだろうか?

私の生活の中でも、主の言葉といろんなものが同等に測られる事がある。
あるいは軽んじられる。主の直接の語りかけ、またみことばを重んじる事がもっとできるように

P神様、あなたの言葉を何よりも尊ぶとができますように
見下したり、忘れるのでなく、いつも私の口にありますように