デボーション

感想・意見・質問はこちらへ


   
2016年2月14日(日) レビ23-24,詩24,使21   過去のデボーション

2016 1 2 3 4 5 6

2015  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12

2014 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12

2013 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12

2012 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12

2011 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12

2010 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12

2009 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12

2008 8 9 10 11 12

 
使徒21:8. 翌日そこをたって、カイザリヤに着き、かの七人のひとりである伝道者ピリポの家に行き、そこに泊まった。 9. この人に四人の娘があったが、いずれも処女であって、預言をしていた。 10. 幾日か滞在している間に、アガボという預言者がユダヤから下ってきた。 11. そして、わたしたちのところにきて、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言った、「聖霊がこうお告げになっている、『この帯の持ち主を、ユダヤ人たちがエルサレムでこのように縛って、異邦人の手に渡すであろう』」。 12. わたしたちはこれを聞いて、土地の人たちと一緒になって、エルサレムには上って行かないようにと、パウロに願い続けた。 13. その時パウロは答えた、「あなたがたは、泣いたり、わたしの心をくじいたりして、いったい、どうしようとするのか。わたしは、主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことをも覚悟しているのだ」。

 同じ予言に対しての二つの受け入れ方

 預言者によって、パウロが捕まり異邦人の手に渡されると言われた。人々は決してそんなことが行われないようにエルサレムに行くのを阻止しようとする。しかし、当本人はパウロは、縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟していると告白する。

 理性的には前者のように、捕まらずに後日のために身を隠し次の働きを測らうのが当たり前でハッピーエンディングとして当たり前のものです。しかし、パウロはそのハッピーエンディングを捨てて、最悪の結果である死までも覚悟していると結論まで言ってしまう。つまらない映画を撮っている模様です。

 自分ならどっちを選ぶのでしょう。宣教においても安全に安全にと思っていたのなら、今のように福音が全世界に伝わることはなかったでしょう。今私たちは自由に福音を聞き、宣べ伝えているのはその安全を無視(?)して働いてきた多くの信仰の先輩たちの血の土台の上に立ているのです。

 自分が動くか動かないのかを決める決断のときに必要なものは自分の安全ではなく、神様の導きです。パウロさんにもおなじように自分の行うべきことがなんであるかを知り、それを従う大胆な信仰が欲しいです。
 無論、パウロさんも時には隠れ、時には逃げていました。しかし、使徒21章では隠れも、逃げもない進むときでした。

 自分のときを、しっかり見分け、従えるものはなんと幸いでしょう。
 

 
2016年2月15日(月) レビ25,詩25-26,使22 久保  

 
あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。<レビ25:10>

私達は戒めとは、自分達の欲望を束縛するものであると考えますが、このヨベルについての戒めは、解放するものです。つまり、主はイスラエルの民に対して、その尊重の証しとして、解放の戒めを与えられたのではないかと私は考えます。

ゼデキヤ王がエルサレムにいるすべての民と契約を結んで、彼らに奴隷の解放を宣言して後、主からエレミヤにあったみことば。――それは各自が、ヘブル人である自分の奴隷や女奴隷を自由の身にし、同胞のユダヤ人を奴隷にしないという契約であった。契約に加入したすべての首長、すべての民は、それぞれ、自分の奴隷や女奴隷を自由の身にして、二度と彼らを奴隷にしないことに同意し、同意してから彼らを去らせた。しかし、彼らは、そのあとで心を翻した。そして、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻して、彼らを奴隷や女奴隷として使役した。――<エレミヤ34:8~11>
同じイスラエルの民でありながら、解放される側と解放する側が存在することに気付きます。奴隷にとって、この戒めは文字通り【解放】ですが、支配する側にとっては、自分の所有物を手離さなければならないという【束縛】となることがわかります。

神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。<イザヤ61:1~3>
この箇所で解放されるのは捕らわれ人であり、良いしらせが伝わるのは貧しい人であり、いやされるのは心の傷ついた者です。そして、このような状況と対極にある捕える人、豊かな人、心を傷つける人が存在します。その人にとっては、同じ言葉が良い知らせとはならないことがわかります。

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。
心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。
平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。<マタイ5:3~12>
この主イエスの御言葉は、支配されている人(貧しい人)に対しても、支配する側(富んでいる人)の両側の人達に対して、告げられています。そして、一人の人に対しては、救いの恵みを受け取る前から、受け取った後、信仰が増し加えられる度の通るべき行程をも示しているようにも思えます。そして、恵みをより受ける程、その求められるものが高度になっていきます。

主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。
<ルカ12:47~48>

天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。
みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負い目をお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人達を赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪から救いください。ハレルヤ!
 

 
2016年2月16日(火) レビ26-27,使23 まゆみ  

 
レビ26:3もし、あなたがたがわたしのおきてに従って歩み、わたしの命令を守り、それらを行うなら
レビ26:14もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、これらの命令を全て行わないなら

アダムとエバに出された条件みたいだ
神様に従っていた時の祝福と、背いた後の呪い
でも、創世記ではやっちゃいけないことはたった一つだったけれど
レビ記時代にはやるべきことを全てやらないと背いたことになるらしい
えらいことだ
ハードルがかなり上がっている
たったひとつさえも守れなかったのに、こんなに沢山守れるわけないや

でもこれをいまだに守ろうと頑張っている人たちがいるのでしょう
えらいことだ
そして律法に生きているから、守れなかった時呪いを受けるということなら
私もまだ時々律法に生きているのかもしれない
呪いとまではいかないけれども、物事がなんだかうまくいかない時はある
神様に従って受ける恵みの結果はこうじゃないはず
何か従えていないことがあるのか

神様がくださる祝福をひとつひとつ
検証してみる
神様から離れて受けた呪いをひとつひとつ
検証してみる

私は今
どこにいるか?
 

 
2016年2月17日(水) 民1-2,使24 飯塚師  

 
タイトル:一人ひとりの名前で呼び出される神様
御言葉:民数記1:4-5 また部族ごとにひとりずつ、父祖の家のかしらである者が、あなたがたとともにいなければならない。 あなたがたの助手となるはずの者の名は次のとおりである。ルベンからはシェデウルの子エリツル。・・・

 当時、20歳以上で軍務につくことのできる男子の数はレビ人を除いて60万人以上いました。奥さんや子供たち、老人たちを含めるなら150万人以上いたと考えられます。神様はそれらの一人一人のことをご存じであることが分かります。族長12人の名前を一人ずつ呼んで召し出されました。

 神様は普段沈黙されていることが多いですが、一人一人のことをよく知っておられ、見ておられます。私たちの名前も日々の行いもよくご存じです。黙っておられるからと言って私たちから遠く離れているわけでも、私たちのことを知らないわけでもありません。
 今日の御言葉で、私たちの側から祈りを通してかかわっていきたいと強く思いました。

祈り:天のお父様、あなたは私たちから遠く離れておられるわけではありません。私たちの人生で神様の栄光をもっと表していけますように助け導いてください。イエス様のお名前によって祈ります。
 

 
2016年2月18日(木) 民3-4,使25 Tomoko  

 
使徒行伝25・18-19
訴えた者たちは立ち上がりましたが、私が予期していたような犯罪についての訴えは何一つ申し立てませんでした。
ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関することであり、また、死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのでした。

イエス様が十字架に架かって下さって亡くなった後、沢山の人達が、復活したイエス様を目撃した、と聖書には書かれています。パウロは、イエス様は生きておられると語ったこと によって、祭司長やユダヤ人から訴えられています。祭司長やユダヤ人の言う通りだとしたら、パウロは嘘つき、新訳聖書はデタラメ、ということになります。

私は何度も新訳聖書を読みました。その結果、何が起きたでしょうか?
光が私を照らしました。何が罪なのかを悟りました。
では、清く正しくならなければ・・・。自分の力では、なれないことがわかりました。
では、どうしよう?・・・いえ、どうもしなくて良い。イエス様が十字架で贖って下さった。
イエス様に感謝しよう。・・・イエス様は喜んで下さる。
イエス様を賛美しよう。・・・イエス様は喜んで下さる。
イエス様を求めよう。・・・イエス様はいつも共にいて下さる。
イエス様に聞いてみよう。・・・イエス様は 答えて下さる。
イエス様を信頼しよう。・・・イエス様は必ず祈りをかなえて下さる。
何が良いことで、どうすれば良いのか。イエス様の元にいる時、私は変わっていく。
自分ではなれなかった、「清く正しい」方向へと、思いが変わっていく。
そして希望。イエス様を信頼する者に、イエス様は力を現して下さるし、必ず永遠の御国へ導いて下さる。

新訳聖書によって変えられた私。
神への愛と、人への愛を深めていっている私。
希望を持って、喜んで生きていかれる私。
こんな偉大な力を持った「新訳聖書」を、どうしてデタラメと言えるでしょうか?
新訳聖書がデタラメでないとしたら、パウロの言っている事は事実です。イエス様のなされた数々の奇跡も、旧約聖書に書かれてい る、天地創造を含む全てのことも、これから起こる全てのことも、全部真実です。

私はこの事を受け入れます。聖書に書かれている事は、全て真実です。一部が正しくて、一部は比喩だ、なんて思いません。理解出来ないところや、受け止め難いところは、自分の未熟さのせいだと認めます。

祈り:愛する天のお父様。あなたが私を救うために、ひとり子イエス様をこの世に送って下さったこと、イエス様が私の身がわりになって十字架に架かって下さったこと、私がその事を悟ることが出来るように導いて下さったこと、私が成長出来るように、聖書を与えて下さったこと、全てを感謝します。この全てが真実であると信じます。イエス様、これからも私を導いて下さい。また、私達が祈っている全ての 人も、救いに導いて下さい。全てをお委ねします。イエス様のお名前によって祈ります。あーめん。。。
 

 
2016年2月19日(金) 民5-6,詩22,使26 新井  

 
S: 民数記5章12節~31節

 31節 夫には咎がなく、その妻がその咎を負うのである。」

O: 浮気した妻(疑われた妻)への話だが、夫とは誰で妻とは誰か?

 この箇所を読んで、僕は男だから「夫」で、僕の妻が「妻」だから、咎がないし、苦い水も飲まなくてよかった。この個所は自分にはあんまり関係ないかな。っと思っていましたが、イエス様が花婿で教会が花嫁。勝手な解釈でもう一度読んでみました。「夫」がイエス様で、「妻」が自分。

A: 僕は浮気症で、イエス様以外と一杯寝て交わっている。苦い水を飲んだら・・・やばい。この箇所では夫には咎はないと書かれてたけど、イエス様は僕が飲むはずの苦い水を飲んでくださった。イエス様自身が飲む苦い水なら害を受けないけど、僕の代わりに僕の苦い水を飲むとなると害を受ける。それでも、僕を愛しているが故に飲んでくださった。涙、出そう。と同時に自分の自己中と愛のなさにに呆れる。なにが「僕は男で夫で苦い水飲まなくてよかった」だ。

P: 神様の愛、イエス様の愛を感謝します。日々の生活の中であなたを選んで歩んでいきたいです。アーメン。
 

 
2016年2月20日(土) 民7,詩23,使27 さかえ師  

 
使徒27:23-25

23昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って
24
こう言いました。『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。』
25
ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神神によって信じています。


Oパウロは航海に出る時、積荷や船体だけでなく、命にも危害と損失があると言ったが、
百人隊長はパウロの言葉より航海士や船長の言葉を信用した。
そして、その言葉通りにの事がおこった。
パウロはどんな気持ちだっただろう?
知識の言葉的な啓示があったのに、人々は信じないし、自分もその船に乗っているから、身身の危険を感じていただろう。

きっと、パウロは神にとりなしていたのではないだろうか?
そして、神の声を聞いていた。
そして、神に告げられた通りになると信じた。

A人間的にその事柄や分野の専門的な知識や経験を持っている人に、
私たちは頼りたくなる。もちろん、そういう人々も主が備え助けてくださっている。
でも、それが神の言葉を反する時、どちらを選ぶだろうか?
また、自分のこうあるべきだという価値観、良いと思う事などに頼ってしまい、
自分にも人にもそれを強要したくなる。特にみじかな人に

神様の計画ははるかに素晴らしい。
目の前に起こっているマイナスな事、祈っているのにうまくいかない事などに、
隠された神の御手が確かにあり、だからこそ私の考えと違ってこの結果なんだと
認めるのは、結構大変だ。
というより、かなり砕かれる。

P神様の御手に委ねることがもっと出来るようにならせてください。
なぜそういうことが起こっているのか自分の頭で理解できる答えが見出せなくても、
私が主のみそばにいるかぎり、主が最善をして下さっているんだと信じる事ができますように。また、その代償を払う覚悟が与えられますように