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2016年2月7日(日) レビ4-6,使14   過去のデボーション

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使徒14:19. ところが、あるユダヤ人たちはアンテオケやイコニオムから押しかけてきて、群衆を仲間に引き入れたうえ、パウロを石で打ち、死んでしまったと思って、彼を町の外に引きずり出した。

 ルステラで伝道していたパウロとバナバに、アンテオケやイコニオムから押しかけてきたユダヤ人によってルステラの群衆はパウロを死ぬほど石打ちをして町の外へ引きずりだす場面です。
 イエスを信じることは天国の始まりなのに、イエスを信じることは涙が拭われ、喜びが溢れる日々が永遠に続くはずなのに、なぜパウロは石打されるほどの仕打ちを受けるのでしょう。

 私たちの人生においても同じような体験をするときがあります。恵が溢れ、神様の愛が満ち溢れているのに、環境が自分を苦しめているような出来事はよくありうるものです。
 多くの方々の証しを聞いてみると、耐えきれない苦しみの中で働く神様の恵みの話しで涙をしたこともたくさんあると思います。

 なせ、神様の恵みは苦しみの後に訪れるものであるかと疑問に思うときもあるでしょう。

 しかし、聖書の多くの出来事が危機から現れる神様の恵みについてです。人それぞれに、浅いものであれ、深いものであれ、苦しみ、問題があります。しかも、その重みを受け止める心も様々で人には浅いものでも、自分には重く圧し掛かるものもあります。

 私たちの中にある信仰は問題がおきたとき、やっと外へ出てきます。心と体は自分を守るためにどっさに反応して相手と周りがどんな影響を受けるか関係なく、行動に発言に移ります。
しかし、霊は違います。その問題を霊的な目で判断し、忍耐を持ってその場面を眺めます。そして、後にその場面に働く背後の霊に向かって働きを始めるのです。

 今日のパウロさんにも、こころと体が 働く前に霊が働いていました。彼は石打にも耐え、命が危うく寸前まで、彼らの手の中にいました。やっと彼らの手から離されて兄弟姉妹たちの献身的な看病と断食の祈りによって健康を回復され、また、主の働きに出かけるのです。

 私たちの人生はサタンとの戦いの連続です。自分だけの救いだけではなく、周りのそして、主によって導かれた人々を救うためのものです。幸せは、私を愛し、私のために自分を投げ捨てた神様の息子イエス・キリストのために、自分も同じように人々のために自分を投げ捨てることによるところに現れるのではありませんか。私たちには復活の希望がありますから。
 

 
2016年2月8日(月) レビ7-9,使15 久保  

 
しかし、パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである」と言った。そこで使徒たちと長老たちは、この問題を検討するために集まった。激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言った。
バルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネもいっしょに連れて行くつもりであった。しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。<使徒15:5~7・37~39>

使徒15章には、二つの争い(論争・反目)が記されています。そして、その解決は全く違ったものとなっています。一方はリーダーが最終的に結論を導きました。一方はお互いに譲らず、別々の道を選択しました。もう一つの側面は、一方は神の命令に関するもので、一方は人の方法論によるものです。
今、現在日本にいる私達には、当時の(今もユダヤ教徒はそうなのかもしれませんが)割礼への重要性への認識が真には理解出来ないのではないかもしれません。実は、各個人のアイデンティティーにまで影響を及ぼすしるしであった可能性があります。そして、使徒の時代は、彼らの宣教活動は、ユダヤ教の一派であった筈です。とすると、この時の最終的な結論は、今で言うとクリスチャンになっても洗礼を受けるか否かは問わないという事と同じ程度のインパクトではなかったのではと思われます。この結論が、後に全世界へ福音が伝わる事において大きな影響があった事は間違いないと考えます。つまり、完全なユダヤ教との分離はこの時であったと言っても過言ではないと考えています。私達は、ヤコブの決断を称えるのではなく、パリサイ人を含めた多数のユダヤ教徒が真の目を開くように導かれた聖霊の働きを、ここに見ます。

人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。<ローマ3:28~31>

もう一方のパウロとバルナバの反目は、二人ともが納得する結論を導くのではなく、二人が別れて宣教するというのがお互いの結論でした。方法論において、二つの方法が一長一短であることがよくあります。特に人の選択という点では、いくら同じ神を熱心に信仰していても、評価する部分がそれぞれ違う為、完全に一致するという訳ではありません。まして、命を賭けた異教の地での宣教です。能力とは別な信頼感が必要である事は当然です。
私達はここに、パウロとバルナバの賢明な判断を称えるのではなく、結果として、優れた宣教者が分離して行動することにより、より多くの人々へ福音が伝わるように導かれた聖霊の働きを、ここに見ます。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。<ローマ8:29>
少なくとも、自分の立場に立脚するのではなく、神と共に歩む中での完全に方法の選択まで一致することは、少ないのかもしれません。それは、それとして、現実として認める事も必要なのかもしれません。本人が若干、苦い思いを、その時持ったとしても、後にそれが必要な行程であった事に気付くかもしれません。

天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。
みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負い目をお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人達を赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪から救いください。
ハレルヤ!
 

 
2016年2月9日(火) レビ10-12,使16 まゆみ  

 
使徒16:25
真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。

賛美の中に神様は住まわれるんだなあと改めて思うこのシーン。

ふたりは何度もむちで打たれてろうに入れられている。
別訳では、しまいには血がしたたり落ちるほどと書いてある。ひぃ痛い。。。

そんなさなかの賛美。

ろうが開く。
看守とその家族が救われる。
ろうから出される。

けして今ある状況は喜べたものではないかもしれない。
そんな時でも神様を賛美する。
神様はその賛美を聞いておられる。
私たちは何を賛美する?
神様を。
神様のみわざを。
神様の臨在を。
今の状況が悪くても、神様はそれさえも益と変える事がお出来になる。

背中痛いなーと思いながらも賛美したふたり。
絶対痛くないわけがない。
もう。あんまり若くないんだから傷の治り遅いのよね。
とか言わない。
全てが神様の御手の中におさめられていると知っているふたり。
全てが神様の御手の中におさめられているから賛美する。
背中痛くても賛美する。

早く癒して下さい も間違った祈りではない。
癒しは御心だから。
でも今までの私はそれだけだったかもしれない。
パウロとシラスの賛美をプラスしよう。

今月は幸い賛美礼拝月間。
背中が痛くても賛美できちゃうかもしれない!
神様のための賛美だし神様のための礼拝だけど、
バッチリ私も恩恵受けちゃう!
 

 
2016年2月10日(水) レビ13-14,使17 飯塚師  

 
タイトル:聖なる憤り
御言葉:使徒17:16-17 さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。そこでパウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ、広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じた。

パウロは町が偶像であふれている事実を見て、憤りを感じました。そしてすぐに伝道するという行動を起こしました。
彼は何に憤りを感じたのでしょうか。人間でしょうか。答えは17章の後半にありました。神様を石や金、銀の像と考え、人間が作った家に住み、人間に何かしてもらわなければ困ってしまう存在ととらえていた無知に対してでした。
神様を愛するがゆえに、事実を知っている者として憤りを感じたのでした。

私たちの国、周りも同じように偶像であふれています。福音を知らずに滅びていく人、真の神様を知らない人々で満ちています。パウロのように憤りを感じることが正常で、そのような環境に慣らされて何も感じなくなってしまうことが危険であると示されました。

祈り:天のお父様、あなたの偉大さ、真実さを伝える者と変えてください。失われていくたましいに対する神様の愛を注いでください。イエス様のお名前によって祈ります。
 

 
2016年2月11日(木) レビ15-17,使18 Tomoko  

 
使徒行伝18・9-11

ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。
わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」と言われた。
そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。

パウロはすごいなー。どんどん語ってイエス様の事を伝え続けた。
私も、イエス様の事を語れたらなーと思います。
けど
私は語るのは苦手。
私に出来ることは、賛美することと祈ること、くらいなのかな。
本当は、全員が「時が良くても悪くても、語り続ける」ことが、神様のみこころなのだけれど・・・。

祈り:愛する天のお父様。
あなたを賛美します。もっともっと賛美したいです。
この賛美の中に、ご臨在下さい。
もっと祈るようにします。
私の祈りをかなえて下さい。あなたのみわざが成されるのを、早く見させて下さい。
私がもっとあなたを信頼することが出来るように、助けて下さい。
イエス様、あなたを信じます。あなたに期待します。感謝します。
いつか私もイエス様のことをどんどん語れるようになりますように。
愛するイエス様のお名前によって。あーめん。。。
 

 
2016年2月12日(金) レビ18-19,詩13,使19 新井  

 
S: 使徒19章15節

 すると悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどお前たちは何者だ。」と言った。

O: 悪霊はイエス様はもちろん、パウロのことも知っていると言い、イエス様を信じていない者には「何者だ」と言った。僕は悪霊によく知られているだろうか?

A:: 僕は今までは、熱くもなく冷めてもいないぬるいクリスチャンがいいなぁと思っていました。イエス様を信じない思いはなく、でもあまり熱心になって悪霊から攻撃されたら嫌だしと。
でも、それは悪霊の攻撃にびびっていた。攻撃されたら嫌な思いになったり、人生が狂ったりとか、自分は絶対打ち負かされてしまうからだと。そこにはイエス様の十字架の血潮、イエス様の御名の権威を忘れていた。悪霊の攻撃に勝るイエス様、聖霊様が僕にはついてるので、悪霊にしっかり名前を知ってもらえるようなクリスチャンになりたいです。

P: イエス様、あなたの道を歩みたいです。僕を整え成長させてください。悪霊から攻撃されたら、僕では太刀打ちできませんので、イエス様が守ってください。罪や悪霊からの攻撃ばかりに目や思いを向けるのではなく、イエス様を見上げて歩んでいけますように。イエス様の御名によってお祈りします、アーメン。
 

 
2016年2月13日(土) レビ20-22,使20 さかえ師  

 
S使徒20:24
けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

Oパウロがエルサレムに行く前に、もう二度と会う事のできない教会の長老達に言った言葉。
福音を伝え自分のすべき任務、行程を全うできるなら、命は惜しくないと告白している

Aパウロは、天でイエスに会えること、従うものに約束された事から、目を離すことはなかったのだろうか?私もこんな風に告白できたらなんと幸いだろう。
自分が召される前に、神様から与えられた計画を全うしました、命さえも惜しくないと
言いきれるそんな人生を送れたら、本当に幸せだ。

最近、ある方々と祈っていた時、ある人が「試み、試練にあう準備はできています」と
祈っておられた。なんてすごい告白だろうか。私はできればそんな目にはあいたくないと思っている。主のみ御心ならば、喜んで犠牲や代価を払えますように見えて

P神様、さらに憐れみ、恵みを与えてください。アーメン